「どうしよう・・・」
目の前の光景を見つめ、彼女は途方に暮れた。
結婚してまだ半年。初めて迎えるこの日くらい、立場も忘れて普通の女性になりたいなと思っていた。
ただ一人のために1日を費やすことができる日。恋をする女性なら誰もが素直になりたいと思う日。たった一人の笑顔に会えるなら、苦手なこともきっと楽しめる。
そう思っていたのに、やはりというべきか、そう上手くはいかないのが現実だった。
目の前にあるのは、お世辞にもおいしそうともキレイともいえないチョコレートケーキ。これが3時間の産物だ。
本を片手に、どこでどう手順を間違えたのかはわからない。何がいけなかったのかもわからない。けれどきっと、そもそも自分にはセンスがないのだろう。
今まで大したものを作れた記憶はない―そもそも作る行為をしない―が、なんとか大丈夫だろうと思った自分は本当に愚かだった。せめて誰かに教えてもらえばよかった。
時計を見て、今残っている選択肢は2つしかないことを知る。もう少しで彼は帰ってくる。このチョコレートケーキはどうしたらいいのだろう。
彼にわたすべきか、捨ててしまうべきか。でも捨ててしまえば彼に今日中にわたせるものは何もない。でもこんなケーキをどうやってわたすのか。というか、わたす勇気などない。
悩んでいたちょうどそのとき、ドアがコンコンと控えめに鳴った。
「アーシェ」
え、うそでしょ?と思う前に彼は部屋に入ってきていた。選択肢はその時点で1つになった。
アーシェは慌てて彼のもとに駆け寄り、なんとか笑顔を作ってみせる。
「おかえりなさい。今日は早いのね」
「あぁ。今日くらい早めに帰ってあげたらどうだといわれてね」
「そ、そう・・・」
ただいま、と彼は笑ってアーシェの額にそっと唇を寄せる。
彼のまわりにいる大人は女性の気持ちをとてもよくわかっている。素敵な心遣いだ。しかし彼女にとっては、今はありがた迷惑でしかなかった。笑顔が引きつってしまう。
できればこの話題をなくしてしまいたい。こんな恥ずかしいところを彼には、彼にだけはみられたくない。
彼の目の前に立って、どうかその後ろにある物を見せまいとする。そして申し訳ないが、彼には一度部屋を出てもらうようにしなければならない。どうしたらいいだろう。何か理由はないだろうか。
彼のやさしい瞳は、今自分を映している。なんて幸せなのだろうと何もなかったら素直に思うだろう。でも今はそれどころではない。あとはしばらく外に出てもらう口実だ。
そう思っていたのに、彼は思いついたように口を開いた。
「ケーキでも焼いたの?」
「えっ」
「アーシェから甘いにおいがする」
最悪だ。もう終わりだと思った。自分は本当に愚かだ。あのチョコレートケーキはやっぱり迷わず処分するべきだった。自分の努力を無駄にしたくなかったとはいえ、あれはひどすぎる。
そもそも作らなければよかったのだ。素直に買うべきだった。そのほうが彼はずっと喜んだかもしれない。
かわいくない自分が情けなくなる。彼の前で嘘をつきとおせた記憶はない。もうここは正直にいうべきだろう。
「あ、あのね・・・、ケーキを焼いたのは本当なんだけれど・・・」
情けなくて、段々声が小さくなっていく。彼は不思議そうに彼女を見つめる。
そしてテーブルの上にある、白い箱に入ったそれを彼の前に遠慮がちに渡す。
「その、失敗しちゃって・・・だから、出来ればこの箱を開けずに捨ててほしいの」
せっかく早く帰ってきてくれたのに、ごめんなさい。彼女はそれだけいうと、顔を赤く染めた。
驚いた彼は、けれどそれを受け取った。と同時に彼女はまた戸惑いながら話す。
「慣れないことをするのはよくないわね、結局何もできなかったわ、あなたの喜ぶ顔が見たかったのだけれど、こんなものもらっても戸惑うだけよね」
全然喜んでもらえない。彼はきっと今がっかりしているにちがいない。
情けなくて彼の顔もみれない彼女は、いたたまれなくなったのか、その箱をもう一度自分の手に戻そうとした。
しかしそれを彼が許すはずがなかった。
「え、あの、ラスラ・・・?」
「もらってもいいんだろう?」
えっ、とようやく顔を上げた彼女がみたのは、おかしそうに、けれど嬉しそうに笑う彼だった。
そして遠慮なく彼女の目の前で箱を開けて、彼女が慌てて閉じる前にその一かけらを口にする。
甘さが控えめなのはきっと彼女の配慮なのだろう。デコレーションが少ないのも、きっと食べやすいように。たとえキレイではなくても、こんなふうに彼女の愛情はこの1つにたくさん詰まっている。
どんなことを思いながら、どんな顔でこれを作っていたのだろう。それを考えるだけで笑みが零れる。
顔を真っ赤にして俯いた彼女は本当にかわいくて、けれど少し意地悪したいなとも思う。
「君が全部作ったの?」
「・・・だから、こんなふうに失敗してしまったの」
「何でも卒なくこなす君にも、苦手な分野があったんだね。知らなかった」
「・・・どうしてこんな日に慣れないことをしてしまったのかしら。素直にも、かわいくもなれなかったわ。だからせめて、このケーキは捨てて明日あなたの好きなものプレゼントしたいの」
「そんなことしないよ。これはもうもらったから」
「そ、そんな・・・」
戸惑う彼女を、彼は箱を置いて優しく抱きしめる。やっぱり彼女から甘いにおいがする。
もぞもぞと動く彼女は、何かいいたそうだった。
「あ、あの・・・、だったらもう1つプレゼントしたいの。あなたの好きなもの」
「好きなもの?」
「えぇ。そうじゃなきゃ本当に申し訳ないわ」
彼を見上げる彼女は本当にかわいい。いつもの強い眼差しがなくなってしまうくらい、彼女は困惑している。
こんなに嬉しいものをプレゼントしてくれて、さらに自分のわがままも聞いてもらえるのか。
彼は珍しく意地悪く笑って、そうして今度はぎゅっと抱きしめる。小さな耳に唇を寄せて、楽しそうに彼は囁く。
彼女は今までで一番顔を赤くして戸惑う。それが逆効果だとは知らずに。
そして一しきり抵抗したあと、それでも抱きしめる腕を緩めない彼を見上げて小さく頷く。
甘い2人だけの時間は、そうして始まった。