神の御前は変わらない。白い肌に添えられた純白のドレスが祝福の風に靡いた時も、喪失の悲しみをたった一人で受け止め静かに涙した時も。
時の流れに廃れることなく、人々の感情に流されることなくその存在は確かなものだった。確かなものだったからこそ、目の前の現実を否定することはできなかった。
広いこの大教会に響く足音。この場所に取り残された若い夫婦は、つい先日ここで永遠を約束したばかりだった。
民の祝福がここに響くことはもう二度とない。いつかはこの場所も消え、あのときの思い出もどこか遠くへたどり着くのだろう。
忘れられる地と、受け止めるには重過ぎる過去。過ごしてきた時間がこんなにも胸を締め付けることになることなど誰が知っていたであろう。
足音が止まり、二人を取り巻く空間が無になる。沈黙のこの瞬間はこの手で触れれば切れてしまいそうな細い糸で繋がれているようだった。
永い時間が経ち、幾重にも重なり合った溢れんばかりの想いが弾け、小さな嗚咽と止まることない悲痛の雫となった。
すべてが必然というのなら、これも最初から予定されていたことだったの?アーシェは宙に問いかける。
幸せを誓ったはずのこの場所で悲しみの涙に暮れるこんな自分も、神から見ればごく自然の流れだったのかもしれない。
けれども、その流れの過程にあった幸せの刹那は神でさえも予測不可能なほど彼女と、彼女を取り巻く大いなる環境に影響を与えていた。
「ラスラ」
答えるあの穏やかな声がないことは、彼女が誰よりもわかっている。だからこそ、彼女は横たわる夫に話しかける。
何度も呼び続けたら、あるとき不意に答えてくれるかもしれない ― そんな、神でさえ不可能な奇跡を願って。
けれど聞こえない。名前を呼ぶたびに涙が溢れていく。いつしか自分の声も小さくなり、嗚咽になり、言葉にならない叫びになる。
身体が震えて、立つこともままならなくなる。震える指先でそっと触れても、生きている温かなぬくもりはなにもなくて。
− 「死」、を。こんなに間近で感じることになるなんて。
相次いで亡くなった兄たちの葬式は十分辛かった。泣いても泣いても、死んでいった者が戻ってくることは二度となかった。
今までの名誉も、思い出さえも残して消える。そんな痛みは何度経験しても未だに慣れることなどない。
一緒に生きると誓った。幸せになると約束した。そして、それらをみんなここに残して一人で消え去った。
私さえも残して。
「怖いと思ったの」
「・・・」
「おかしな話なのはわかってる。でも確かに、兄上の顔を見たとき、死が怖いと思ったの」
喪服を着た彼女は、そういってラスラに悲しそうに微笑んで見せた。
相次いでアーシェの兄たちである王位継承者を亡くしたダルマスカは、灰色の雲に覆われていた。
残る継承者はただ一人。末っ子で女性である彼女だけ。
圧し掛かる重圧と、理解者を亡くした悲しみと、戦乱の足音が彼女を怯えさせていた。
そんな彼女の口から零された、小さな真実。ラスラは静かにそれを聞いていた。
「・・・ごめんなさい。こんな話をするつもりなんてなかったの」
「いいよ、話して。君の痛みを少しでも楽にしてあげたいんだ」
真っ直ぐに語りかけるラスラの瞳には、あまりにも小さく儚いダルマスカの唯一の王女が映っていた。
泣き腫らしたはずの真っ赤な瞳がまた不意に揺らぐ。けれどこれは悲しみだけの震えではない。
今まで精一杯に張り詰めていたものが静かに切れて、彼の想いが優しさに変わって彼女の心の奥に響いたからだ。
彼はそっと手を伸ばし、俯く彼女の美しい髪を撫でる。
「・・・おかしな話じゃないよ。誰だって怖いさ」
「・・・」
「向けられた民の希望に応えられるのか不安なのもわかるよ」
「・・・でも」
「でも、君が泣いているのを見た人々は、決して君を否定したりはしない」
その言葉に、アーシェは少しだけ顔を上げる。あまりにも強い言葉だったから。
ラスラは優しく微笑んで促す。そうだろ?と。
「・・・でも、いつまでも泣いてばかりの王女ではいけないわ」
「だったら、泣くのは俺の前だけにしよう。一人で泣かれたら今度は俺が辛い」
「・・・ありがとう」
彼女は少しだけまた微笑み、彼に少しだけ寄りかかる。抱きとめる心地は優しさそのものだった。