「気づかないとでも思ったの?」



情事のあと、彼女はバルフレアに背中を向けたまま冷たく言い放った。









気にしてはいけない。アーシェはそう誓った。
冷めたように熱い情事の間、彼女は余裕の笑みを湛えるバルフレアを見ることを彼に気づかれないようにそっと拒んだ。
見てはいけない。もう一度見てしまえば、今度こそ私は壊れるかもしれない。ぎゅっと目を瞑り、アーシェは心の中でずっと暗示をかけていた。これは、きっとなにかの間違いなのよと。
当のバルフレアはそんな彼女の小さな決意に気づくことなく、いつものように素っ気無く熱い想いを伝える。
そう、傍から見ればなにもかもが思い通りに上手くいっていた。彼女の決意は守られていたし、バルフレアはそれに気づくことなく彼女の作り出した甘い罠にまんまと騙されていた。

ほんの数時間前までは、本当に「なにも」なかったのだ。
いつものように夜中に王女の私室へやってきた彼を迎え、いつものように少しだけ苦いコーヒーを彼だけのために淹れる。
そしていつものように彼は王女を抱き、至福の場所へいざなう。無論、彼女の同意と承知の上で。
そこまではよかったのだ。バルフレアとアーシェにとっての至福の場所はいつからか同じ場所と同じ時間になっており、そこに行けるのは世界でただ二人だけだから。
その過程だって − 最初は小さな痛みと止め処ない不安を伴っていたけれど、決して嫌なわけではなかった。彼がそれ以上に優しく愛を伝えてくれたから。
今夜だって、そうであると彼女は信じていた。実際、バルフレアは彼女に熱く想いを伝えたし、アーシェにとって不快なことはなにひとつしていない。ただ、彼女の想いがいつもと少しだけ違っただけで。
夢のような心地の中でよみがえる一瞬の光景。伝えることはしないと思っていた。自分にそんな勇気はないと思っていた。
それなのに私のどこかにいた「事実」が、崩壊する恐怖にさえ怯えずに熱い想いが冷たい私室の空気に晒されていくのを感じながら彼に問いただしたのだった。



「なにが」



返答は空賊らしく早かった。背を向けているからわからなかったけれど、彼が訝しげな顔でこちらを振り向いたのは気配と声でわかった。
急に張り詰められた空間に、その言葉を発するのは怖かった。誤魔化すことができなくなるようで。自分の想いを隠すことができなくなりそうで。
けれど彼女は比較的優しげな声で、まるで告白するような決意と不安を乗せて続けた。



「・・・首筋」
「なに、聞こえねぇんだけど」
「首筋。ファンデーションで隠してあっても、わかるのよ」



それだけいうのが精一杯だった。この一言で理不尽な別れが訪れる可能性だって大いにあるのだから。
返事はなかった。だから彼女は少しだけ肩を震わせた。違うという言葉の期待と、否定しない事実がこの空間を震わせながら自分の耳に届くような気がして。
けれども聞こえてきたのは否定でも肯定でもなかった。彼の口元はきっと意味深に余裕な笑みを湛えたのだ。
拍子抜けなそれに、痺れを切らしたのか彼女は彼のほうを向く。



「気づいてねぇとでも思ってた?」
「どういう意味」
「見ねぇようにしてたんだろ、俺に気づかれないように。ったく、俺が気づかないとでも思ってたのかよ」
「だから」



続けようと思ったそのとき唇に熱いものが伝わる。キスのような雨が自分を覆って身動きがとれなくなる。
それは恐怖のためか、それとも彼のあまりにも深すぎる想いのためか。どちらかわからないけど。
酸欠になりそうな長く熱いキスのあと、思考回路が遮断されそうな潤んだ瞳の彼女に伝える。



「王女様が隠してくれよ。俺も不快で仕方ねぇ」
「なにいって」
「バーに行ったとき、つけられたんだよ。俺はそのとき酔っ払っててなにが起こったか気づいてなかった」
「・・・ファンデーションは?」
「フランの提案。最も、それはお前に隠すためじゃなくてこの部屋にくるまでってことで」
「・・・知ってたのね」
「王女様は鋭いんでね。時間の問題だったってこと」
「それなら早くいえばいいじゃない」
「どういう反応するか見たかったんだよ。ま、案の定予想と同じ」



疚しいことなんかねぇよ。バルフレアはまっすぐに彼女を見ていう。
それをいわれてしまえば、もう終わり。ただ疑った自分の恥ずかしさが曝け出されるだけ。
自分の本意とは裏腹に、いつも自分はこの人の前では裸にされてしまう。不快と安心の境界線は紙一重だと改めて思い知らされる。
元々、隠し事なんて二人の間には意味のないことだ。どちらかがなにか気づけば、すべて知られてしまう。それを一番誰よりもわかっているのは二人だけだ。
むき出しの嫉妬心と、これ以上に愛されたい欲望。元より隠し事などできるはずがない。



「ズルイわ」
「じゃ、その言葉撤回のためにもう一時間ここにいることにするぜ」
「別にいいわ」



抵抗の言葉は飲み込まれる。隠すことのできない想いは、二人にとって紛れもない真実。
未だ抵抗の言葉を並べるアーシェに、バルフレアは微笑んだ。