花を手向けたのは、彼女ではなく死者だった。不意に冷たい風が吹き、彼女の手に大切に抱えられていた花のひとひらが宙を舞う。
穏やかで冷たい風に誘われて、彼女の美しい瞳はそれに向けられる。空を上りつめて、そしてその後は長い旅路が終わったようにゆっくりと彼女の掌の上に舞い落ちた。
ひとひらの一生は、もしかしたら人のそれだったのかもしれない。一度高みに手を伸ばすことができた人間は、あとは落ちていくだけ。それをいつも目の前で見てきた。
高みを手に入れた故に失ったものを価値という天秤にかけたところで、何かが変わるわけでもなく、また、何かが始まるわけでもない。
・・・それでも。彼女は心の中で穏やかに、そして確かに紡ぐ。
幸せを手に入れた自分は、もう一度同じ夢を見ている。傍にいなくても彼はいつもここにいる。
胸に当てた手を見て、目を閉じる。ゆっくりと呼吸して、風を感じる。
過ちだらけの過去も、ずっと抱き続けていた自責と後悔の念も、今なら全て許されるような気がした。
テラスにいる愛しい恋人は夜空を見上げていた。美しい星空に、彼女は穏やかに微笑んでいる。まるで、空とたった二人で秘密の会話をしているように。
今の彼女は、自分のことなどきっと眼中にないのだろう。でも、それでいい。流れる沈黙は決して耳障りではなく、この身に自然と馴染んだ心地よいものだから。
強いわけではないが、儚いわけでもない。目に映るだけでは一抹の不安が残るが、それでもまだ自分は彼女をまっすぐ鮮明に捕らえている。
いつもなら、空と会話しないで俺を見ろよと剥き出しの嫉妬心を彼女に向けただろう。でも今は違う。こんなふうに微笑む彼女を、ずっと傍で見ていたい。
穏やかに微笑んで彼女を見詰める。そして不意にこちらを向いた彼女と目が合った。
「何?」
困ったように微笑む顔がこちらに向けられて、バルフレアはひどく安心した。
彼女が自分を捕らえているだけでこんなにも嬉しい。いつもはそう感じることが少ないのに。
それらを形にしたくて、彼は彼女のもとへ歩み寄り、そっと手を伸ばして後ろから抱きしめた。
「いい女がいたから釘付けになってたんだ」
「・・・今更口説いても何もないわよ」
「口説いてるわけじゃねぇし、何もなくていい」
そして彼女の肩口に顔を埋める。いつも悪戯を施す唇は閉ざされたまま。
プラトニックラブ?彼女は微笑んで、彼の腕に身を任せる。空が急に遠く見える。
きっと、彼がこうして自分を抱きしめているから。だからこんなにも愛しくて、こんなにも寂しい。
恋に落ちたのと諦めたように笑えば、空の彼はなんといって微笑むだろう。
いつも空に抱かれているのに、今夜は彼の顔や表情さえも思い出すことができない。
「バルフレア」
今日はどうしたの。彼女は問いかける。最も、彼に尋ねた理由はただ単に名前という生温かいぬくもりがほしいことを隠すためたっだけれど。
彼はその問いに答えることなく、さらに抱きしめる腕を強めた。
抱かれているときよりも、こうして抑えきれない感情を留めて優しく抱きしめてくれるほうが好きかもしれない。そんなときの彼は、きっと自分と同じだから。
一つ困ったように溜め息を吐いてから彼女は続ける。
「今日はどうしたの、は、私のほうかもしれないわ」
バルフレアは顔をゆっくり上げる。彼女は微笑んでバルフレアを見て、唇で言葉をなぞる。
今日、彼が私の中でもう一度死んだのと。
目を見開いたのはバルフレアだった。そして、今は哀しみを携えた瞳で空を見上げる彼女を見た。
その目を見たとき、彼は彼女が抱えている未来の代わりに手に入れた過去の代償を垣間見た。
どうすることもできない。一種の諦めと敗北感が彼を襲った。
「今日、彼の3回忌だったから。お花を手向けにいったの。1年ぶりに」
悪かった。彼女の言葉が千切れたすぐ後に彼は付け足した。こんなデリケートな場所に土足で踏み入れて荒らすようなことをした自分を責めた。
ううん。彼女は小さく首を横に振り、あなたがいてくれてよかったと微笑んで付け足した。
熱があるのか、大丈夫か。彼女の小さな額に手をあてて、そんなふうに誤魔化しながら笑い飛ばすことなどできなかった。否、してはいけないことなのだ。
重荷を一緒に持ちたいということを口実にして、彼女の中に今も存在する男を消し去ってはいけない。
どうしようもできない、ギリギリの境界線だった。
「ごめんなさい、突然こんなこといって」
「いや」
「嫉妬しちゃう?でも私、もう彼のことはよく思い出せないの。いなくなったとき、あんなに悲しくて、あんなに辛かったのに。おかしいでしょう?」
彼女が諦めたように笑う。けれど美しい瞳は彼への輝きを失っていなかった。
私、ヒドイわね。本気で愛していたと思っていたのに。なぞる彼女の唇は小さく動く。
彼女は待っているのだ。この言葉を打ち消してくれる何かを。そう、彼の言葉を。
ごめんなさい。彼女はバルフレアにそう話した。あなたを傷つけるつもりはないの、と。
困惑と寂寞を隠して微笑む彼の唇を情熱的に奪えたら、どんなにいいだろう。彼女は思う。そしてそのまま、ベッドに倒れこむだけの勇気があったなら。すべては想いを通じ合わせる完璧な「今」になる。
どうしようもできない過去に、どちらも思い詰めていた。
「今日は、だろ」
「え?」
「思い出せないのは、いつも王女様の中に王子がいるからだろ。思い出す必要なんて初めからなかった。思い出そうとした日は、どうしても思い出せねぇんだ」
そうだろ、と彼は彼女に告げる。そして照れくさそうに微笑んだ。
彼の思わぬ言葉を目を見開いて聞いていた彼女も、それにつられて少しだけ微笑んだ。
バルフレアはもう一度彼女を抱きなおした。
「俺は、別に王女様の中から王子の全てを消し去ろうなんて思ってねぇよ。ただ・・・」
「ただ?」
「今も王女様の半分を占めている王子が羨ましいだけだ。つまりは嫉妬だな」
こっちのほうがおかしいだろ?彼はそういって微笑んで、彼女の肩口に顔を埋めた。
心が満たされていくのを感じる。名前のないそれは、けれど彼女の頑なな想いと自責を優しさに変えるには十分だった。十分すぎて、今にもあふれ出しそうだ。
「半分じゃない」
「・・・何が」
「彼、きっと私と一つになったの。だから私の中にいるというか、いないというか・・・」
「どっちだよ」
「どっちもなのかも。でも、私の4分の3はあなたよ」
彼女は深く微笑んで、自分を抱きしめる彼の腕にそっと手を添えた。
ばーか。そういって照れくさそうにバルフレアは微笑んで、彼女の小さな唇にそっとキスを落とした。
啄ばむような優しいキスのあと、彼は微笑んでまた強く抱きしめる。
あぁこれも本物の愛なのかもしれない。バルフレアの穏やかな笑みを見詰めて、彼女はそう遠く感じた。