目を閉じていても、その大きさはこの身で感じることができた。
足が止まることはなかったが、その一歩は重かった。
リドルアナ大灯台の上層は激しい攻防を繰り返すことなく、長く階段が続き、辺りは繭の力を見せるがごとく激しい水の音しか聞こえない。
決めなければいけない。力ある者と力なき者の違いは、この2年で十分わかったはずだ。結局、弱い者がいくら足掻いたところで変わることなど何もない。
そう、わかっている。けれど、力を手に入れようとするとこんなにも恐怖が胸を支配するのは何故だろう。恐怖も喪失の痛みも、この手で全て受け止めると誓ったはずなのに。
前を向くことができない。少し俯き、先を行く彼女の歩調が遅くなったとき、空賊は後ろから問いかけた。
「どうするんだ?」
振り向いた彼女の目に映ったのは、真っ直ぐに自分を見つめるバルフレアだった。
彼女は何もいわずに、また前を向く。バルフレアは立ち止まった彼女の傍に近づき、そして追い抜いた。
存在を遠く感じる。ほんの一歩前に出ただけなのに、彼が遠く見える。
「決めるのはあんただ。俺はどっちでもいい。ただ・・・」
「力を手に入れて後悔するのは私」
彼の言葉に続ける。振り向いたのはバルフレア。真っ直ぐに見つめる彼女のその瞳は強かったが、肩は小さかった。重圧に耐えていることは一目でわかる。
本当は、心の奥底で笑い飛ばすことができればいいと思っていた。こんな重圧も過去も王女の肩書きも全部放り投げて、ただ自由になる。そう、彼のように。
けれど空賊になった彼だって、未だその自由は掴めていない。結局、何もかも捨て切ることなんてできなくて、ただ目の前に唐突にだされる選択肢に迷いながら生きている。
未来か過去か。生か死か。この選択の前に、ただ自分は足が竦んでいるだけなのだ。
バルフレアがまた歩き始める。彼女はその一歩が踏み出せない。俯くと、恐怖に縛り付けられそうだ。
「俺は、王女様に後悔はさせたくねぇ」
足は前を向いたまま、バルフレアは彼女に告げる。不意に告げられたその言葉は彼女の心に留まる。
悔やみきれない過去にできる償いは、たった一つだけ。バルフレアはそれを知っている。
アーシェは気休めのように少しだけ微笑み、バルフレアの後を追った。
強大なミストに覆われたこの場所で、天陽の繭は静かに迷える者たちを待っていた。
元ジャッジ・マスターである大柄の空賊が、皆の前から一歩先に出る。あれが天陽の繭か。この目に映る全ての力の源に恐れ戦きながら、その一言は確かに彼女の心に重く圧し掛かった。
契約の剣を握り締め、アーシェはたった一人でその繭に近づく。神にも等しい力の御前にいる彼女には、もう何も見えない。何も聞こえない。
ミストの静寂に溶け込むかのように、彼女の言葉は静かで、そして確固とした重みを含んでいた。
レイスウォール王はこの剣で繭を刻み、力を手に入れた ― 。そう、かつて世界を作り上げた王は、自分と同じ道をたどり、力を手に入れたのだ。
声を上げたのは空賊の少年だった。だけどお前はその剣で繭を壊す、そうだろ?
「お前」はやめてとあれほど強くいっていたのに、どうしてここにきてもいうのだろう。もしかしたら歴史や秩序を変えるかもしれないというのに。
アーシェは微笑み、少年の問いには答えなかった。そして深呼吸をして、繭の力の強さを体中に感じる。
その強さに負けないように ― アーシェは震える身体を伸ばして、力強く契約の剣を天に振りかざした。
答えはわからない。自分がこれから何をするのかもわからない。後悔するかもしれない。けれど、もう立ち止まってはいられない。
ゆっくりと歩み出したそのとき、目の前にいたのは彼だった。
「ラスラ様?!」
バッシュが驚きの声を上げる。自分が助けられなかった王女の夫が、今この目に映っている。そしてアーシェをまっすぐに見つめている。
誰もが驚いている。何もいわずに、ただそこに存在しているだけなのに。
心が揺らぐ。見つめているのは、無念の死を遂げたあの人だ。必ずこの手で復讐をすると誓った彼だ。
「破魔石で、帝国を滅ぼすの?破壊があなたの願いなの?私の義務は復讐なの?!私は・・・」
ミストに千切れた言葉に続けたのは、父を殺したジャッジ・マスターだった。
手を伸ばし武器をとり、父の仇を討て。どれほど足掻こうが、人は過去から逃れられない。冷酷な唇は告げ、アーシェの復讐を願う。
ヴァンが武器をとる。その言葉を覆すために。復讐をしたところで過去の人は救われるのか?アーシェを強く見つめ、答えを促す。もう、止まってはいられないのだ。
アーシェがバルフレアを見る。バルフレアも、アーシェを見つめている。何もいわずに、ただ真っ直ぐに。時間が止まったように。
皆が武器をとる。過去に縛られるのはもういい。重い唇から告げられたバルフレアの言葉。君でよかったと穏やかに微笑みながら告げた、彼の記憶がまたよみがえる。もう、本当はここに来たときからからわかっていた。
「ラスラ・・・私、あなたを信じてる。あなたは・・・あなたはそんな人じゃなかった!」
契約の剣で、ラスラの幻を強く振り払う。
あの人はもう・・・いないんだ。
ラスラを振り払った自分の手が震えている。喪失が一気に自分の肩を攻め立てる。声も震えて、もうラスラのことは見れない。それでも、自分は選んだのだ。
幻が語りかける。破魔石で正しき歴史を導く聖女になれと告げる。
アーシェは前を向き、また振り払う。私は聖女なんかじゃない。もう一度振り払うと、ラスラは消えた。
長い間、ダルマスカは一度も石を使わなかった。石に頼らないと決めた人たちの国だった。私が取り戻したかったのはそういうダルマスカだった。
自分に語りかけ、そして深呼吸をして皆に告げた。
「天陽の繭を砕くわ・・・破魔石を捨てる!」
バルフレアを見る。たとえこれが間違いでも、過去ではなく自分で決めたのだ。もう後悔はしない。
石に頼るのは、裏切りと同じ。そう告げて、手にしていた暁の断片を捨てる。
目線の先をジャッジ・マスターに合わせ、まっすぐに見つめる。
「力なき者に未来はない。何者も守れはしない」
ジャッジー・マスターの言葉に続けたのはバッシュだ。守るべきものがある限り、守り続けると。
慟哭が響き渡る。バッシュがジャッジ・マスターに刃を向ける。
過去に縛られた者が自由と向き合う。全ては自分と、死んでいった者たちのために。
「やるのか」
バルフレアがアーシェに近づき、問いかける。
アーシェは頷き、天陽の繭を見つめる。繭はその力をありありと見せ付けている。
深呼吸をして、武器をとり、ジャッジ・マスターに刃を向ける。
「私は、私らしくいたいから」
アーシェはバルフレアを真っ直ぐに見つめ、そう告げた。
了解。バルフレアは少しだけ微笑み、彼女と共に過去に立ち向かった。